2020年5月28日木曜日

ゲームは、ゲームに付随してコミュニケーションを発生させるので、良いという事~大谷直史さん(みんなの居場所ぽっと)インタビュー2/4~

現在YokaYokaでは、余暇支援に関わっている方(主に余暇、遊び、居場所)を中心に、「明日何しようかな~余暇支援に関わる方へのインタビュー~」と称して、お話を聞かせて頂いています。

鳥取でみんなの居場所ぽっとという居場所を運営している大谷直史さんに、「居場所とゲーム」を中心に、様々なお話を聞かせて頂きました。お話を聞かせて頂いたのは、新型コロナウイルスによる影響が本格的になる前の2月の下旬です。視察も兼ねて、ぽっとには2泊3日お世話になりました。


今回は、2回目のアップになります。
みんなの居場所ぽっとには、800種類以上のボードゲームがあります。学童保育や子ども食堂の開催と並行して、ボードゲーム会も実施しています。ちょうど、私達が宿泊させて頂いた時は、ゲーム会の開催日でもありました。ゲームとコミュニケーションの関係の話を聞きながら、居場所の役割についても聞いています。

前回のインタビュー↓↓↓


興味がある方は、是非読んでみてください。


煩わしいとか面倒だといってこうゆうノイズや関係を排除してきた。でも、そうゆう種類のコミュニケーションの方が大事なのではないかと

― 大谷さんが所有しているボードゲームの種類を拝見させて頂いて感じたのですが、コミュニケーション系のゲームが結構多いですよね。コミュニケーションについては、常に気にしていますか?



大谷:気にしています。自分があまり得意ではないし、好きでもない。結構、1人でいたい人で、全然喋らない人間だったので。必要ない事は喋りたくない。だから、挨拶もしないと決めています。

― 最近のコミュニケーションという言葉の意味は、物事を正確に伝える為の伝達のコミュニケーションではなく、「空気を読む」とか「場を和ませる」等の個人に帰結するコミュニケーションが注目されています。大谷さんは、そういったコミュニケーションは得意でもないし、好きでもないと。

大谷:そうだね。多くの人が、一緒にいる事によって発生するノイズを排除して、1人でいられる時間や場所を重視する。一方で、空気を読む為に、お互いを褒めあったりして、コミュニケーション自体を目的としたコミュニケーションをどんどんするわけですよ。それより、一緒にいる事により、こんな風にノイズがいっぱい入ってくる。ノイズがあっても、「まあ、しょうがないよね」って許容できる感じ。ノイズがいっぱい溢れていて、そこに気を使う必要ながないけれども、当然我慢しなきゃいけないこともいっぱいある。たぶん煩わしいとか面倒だといってこうゆうノイズや関係を排除してきた。でも、そうゆう種類のコミュニケーションの方が大事なのではないかと・・・

― なるほど。それでは、こちらにあるボードゲームはどういった立ち位置になるのでしょうか?

大谷:わざわざコミュニケーション自体を目的とした場を作って、そこで戯れようとする。そこは、コミュニケーション強者が我が物顔になっていて、弱者は入っていけない。すると、弱者はどんどんコミュニケーションがとれなくなってしまう。そういった時に、ゲームは、ゲームに付随してコミュニケーションを発生させるので、良いという事だよね。

― いわゆるコミュニケーション強者・弱者という関係が、ゲームに参加する事によって問われなくなる。ゲームで遊ぶと、様々なコミュニケーションが発生しますよね。


大谷:ゲームは、目的が決まっていて、そこに向かってさえいけばいいので、非常にシンプルですよね。敷居が低いゲームだと、一緒にやっていると、余分な部分でコミュニケーションを生じてしまっている。そこを許容するという点では、強者も弱者もあんまり関係なくなるという。

― では、昨日の『アヴァロン』は別枠という事でいいですか?(前日の夜に遊んだゲームで、初参加の前田はコテンパにされた。一緒に参加したメンバー曰く、目が死んでいたらしい)

大谷:コミュニケーション系のゲームは、実はコミュニケーション強者にとっていい場所ですよね。むしろ、コミュニケーション系じゃないゲームの方が、居心地が良いかもしれない。

― そうですね。でも『Dixit』等のゲームであれば、違うかもしれないですね。駆け引きが重要な要素になる人狼系のゲームはどうしても・・・

大谷:強い人が強いからね。

ー 先ほど、必要がなければ、挨拶もしたくない。必要がない事はしゃべらないと言っていましたが、ゲームをやる事によって、ゲーム以外のところで会話等が発生しますよね?大谷さんは、ゲームをやる事により発生するコミュニケーションを求めていらっしゃるという事でしょうか?

大谷:求めていますね。ずっと一人で生きていくのは寂しいので、他者とのコミュニケーションを必要としてしまう。でも、わざわざ「コミュニケーションしようぜ」といってコミュニケーションとるのは、苦手です。だから、ちょっと話飛ぶけど、告白とか嫌いだよね。あなたと付き合いたいという事を、わざわざ「付き合いたいです」と言葉にするのは、気に入らない。たまたま一緒にいて、居心地がよくて、それが続いているものを、わざわざお互いが言葉にして、了解し、確定しないといけないのか。

場所を構えてやっている事により、僕にとってだけじゃなくて、他の人にとっても、偶然他者との出会いがある空間になる。

― 先ほど、「他者」という言葉が出たのですが、「他者」というのは、どういった存在だとお考えでしょうか?

大谷:一言で表すと、「自由の根拠」かな。やっぱり、自分だけではつまらないですよね?自分にできる事は、だいたいわかっているし、同じことの繰り返しでしかない。全然変化ないし、発想の転換とかもない。そこで、訳わからんやつと関わる事は楽しいので・・・人生を楽しくする為には「他者」が当然必要。さっき自由と言ったのは、自分だけだと自分の枠からでる事ができない。「不自由」な状態。その「不自由な状態」から、一歩踏み出し、自由を得るために「他者」と関わる。

― 居場所として構えている事によって、他者が来ることによって新しい何かが生まれると。

大谷:居場所をもってないと、他者とコミュニケーションをとりにいかなければならない。コミュニケーションをとるために挨拶をして、そこからわざわざコミュニケーションをとる。でも、居場所があると、人がやってきて、そこで自然に他者と交流ができて、自分の枠から出る事ができる。場所を構えてやっている事により、僕にとってだけじゃなくて、他の人にとっても、偶然他者との出会いがある空間になる。

― コミュニケーションを発生する場を意図的に作っているという事でしょうか?

大谷:多分同じことだけど、それは「贈与」できる空間を作っている。他の公共空間で、勝手に「贈与」したら、少し気持ち悪い人ですよね?居場所であれば、勝手にやってきて、子どもと遊んでも全然かまわない。むしろ求められている。

― 例えば、お店に行って、店員さんの対応の不手際が目立った時に、誰かが「あの店員、ちょっと対応が・・・」みたいな事をと言ったとします。これは、店員と客という関係の中で文句を言っている。もし、これが街中で偶然会って、先ほどの店員が困っていたら、文句を言っていた人も「どうしました?困ったことありましたか?」みたいな形で声をかけるかもしれない。メンバーシップという境界線が引かれてしまうと、そこに関連してコミュニケーションの形が変わってしまう。

大谷:でも、公共空間だと、ほとんど声掛けないですよね?特に日本人は、道端で困っている人がいても、たぶん90%は無視するのではないかな?そういった中では、「贈与」が発生しづらい。下手に声をかけると、声をかけた人の責任が問われてしまう事もある。救命救急にしたって、下手にやってしまうと、自分に責任がかかってきてしまうかもしれない。「贈与」した方が責任を問われる社会になりつつある。だから、この居場所の中では、自由に「贈与」してもかまわない。むしろ、どんどん「贈与」を活性化する場所にしたい。

「贈与」の方は、責任を喜んで引き受けたい。


― 初日の夜に、責任は引き受けるものだと言っていました。例えば、「贈与」と「交換」を比較した時に、責任の意味が異なるのでしょうか?

大谷:変わるでしょうね。「贈与」領域だと、責任が生じるので関わる。交換は、たぶん同時に責任が生じますよね?行為すると、責任をもって行為しなくてはならない。贈与の場合は、困っている人がいて、困っている人を見た瞬間、責任が発生しますよね。助けなきゃいけない、声かけなきゃいけない。

― 市場の場合は、「交換」した後に「責任」が生じるという事でしょうか?

大谷:事後的に生じるか、事前に生じるか・・・そうゆう事かもしれないな。

― 誰に責任が回帰するのかというのは、「交換」では問われる事が多いように感じます。

大谷:「贈与」の方は、責任を喜んで引き受けたい。例えば、このぽっとに来ている子どもと一緒に遊びたい。それは、子どもが求めている前提があったとしても、やっぱり僕らが子供に「贈与」したいから、喜んで引き受ける。こうやって、喜んで責任を引き受ける空間が、贈与空間だと言えるかもしれない。

― 子どもが相手であれば、メンバーシップに捉われず、「ちょっと遊んでみようか」という気持ちになりますね。

大谷:子どもは積極的に求めてくるので、発生しやすいですよね。

― ちなみに大谷さんは、「遊び」はどう捉えていますか?

大谷:遊びはね・・・うーん、遊びは・・・・ えー、こうゆう事(手に持っていたペンを回し始める)これは、書くために作られている。書くために作られたもので書くと、それは遊びではないですよね。その作られた意図を外して、そのもの自体と戯れる事。ここに同調して、なんとなく回したくなって回してしまう。ボールが落ちていて、なんとなく拾って投げてしまう。それは、ボールのアフォーダンスの力によるものかもしれないけど、自分から何かしようと思ってしてしまうと、それは遊びじゃない。ペン回しで言えば、回そうと思って回すと、もう遊びじゃない。意図と外れた所で対象と関わるのが遊び。だから、ボードゲームは遊びではない。あれは、訓練ですよね。テレビゲームも訓練。

― 余白でいかに楽しむかというものを遊びと捉えているということでしょうか?そう考えると、ボードゲームは余白の部分はだいぶ少ないですね。

大谷:少ないですね。だから、あれは訓練や勉強と言った方がいい。学校教育に、非常に親和的な形。

― 学校教育で使いたいという人は見かけることがあります。

大谷:ゲーミフィケーションが流行るのは、日本は学校化された社会なので、しっくりくるという事だと思います。

― ゲーミフィケーションは、学校の中に遊びの要素を導入していると思っていたのですが、大谷さんから見たら親和性が高いもの同士がくっついている。

大谷:遊びは本来の意図からずれていくもの。僕はゲームしている時は、非常に厳しくて、ルールを守らない奴はビシッと叱って、怒ったりする。そうゆう意味では、僕も学校化されている。矛盾しているよね。遊びが大事とか言っておきながら、ゲームが大好き。

― 大谷さんの理論で考えると、矛盾してしまうかもしれない。でも、感情で考えたら矛盾しないと思います。遊びもゲーム「楽しい」という点は共通している。

大谷:「楽しい」という気持ちを効率よく動員するためにゲーミフィケーションが行われている。僕らは騙されやすいからな~

― 進んで騙されている部分もあります。

大谷:だから、そこの意図を外して対象と関わってやろうとぐらいにならないとまずい・・・僕は、ふざけた事にも許容幅がだいぶ広くて、例えばこの間鍋をやった時に、ちくわ一本そのまんま鍋に入れたんだよね。一般的に叱られる事だけど、ちくわで鍋の汁を吸うとかやったりとか・・・なんてゆうかな・・・規範から如何に逸脱できるのか。単に逸脱するのでなくて、対象と戯れる事で逸脱する。

― 鍋の汁をちくわで吸う事が、ちくわと戯れていると・・・

大谷:ちくわの形状から、そうせざるを得ないですよね。僕らは。ちくわ一本もたされたら、やっぱり吸っちゃいますよね。もしくは、吹く。あるいは、指をつっこむ。

― でも、1人でやってもつまらなくないですか?

大谷:僕は、1人でやっても楽しめると思うな。その時、やはり自由になれる気がします。遊びというのは、自分から遊ぼうと思うと遊びになれない。遊びに主体性はない。物と自分の間に主体性があるという間主体性の状態になる。その時、僕は対象と同一化してしまって、どこまでが私かどこまでが対象かわからなくなって、世界と融合できる。世界の一部に溶け込んでいく体験の先の方に、この遊びという現象がある。それは、別に他者必要ない。むしろ、対象が他者なので。他者と融合する事。それ自体気持ちいい事だと思います。

― ごっこ遊びの中で、砂の城を作って、「○○が攻めてくるぞ~」と1人で遊んでいる。本気で攻めてくるとは思っている訳ではないけど、本人は遊びと思って適当にやっている訳ではないと。

大谷:模倣遊びは、訓練っぽいな。たしかアンリオという人が、遊びを分類していましたよね?競争の遊び、模倣の遊び、運の遊び、眩暈の遊びと4つに分類していました。競争の遊びと模倣の遊びは、近代的で、学校教育で推奨されるような遊び。競争は、ゲームに近い。

― スポーツもそうですね。

大谷:スポーツもそうです。反対側のこちら(眩暈と運)側は、よくない遊びとされている。近代的な価値観にちょっと反するところがある。

― (運の遊びを指さして)ギャンブルとか?

大谷:こっち(運の遊び)は、ギャンブル。こっち(眩暈の遊び)は、ジェットコースターとか、ブランコとか、役に立たないもの。最終的にはバランスなのですが、模倣や競技が推奨されている状況はよくないと思っています。スヌーズレンなんかは、かなり眩暈的な要素が大きいと思うけど。

― 自分の好きな感覚を選ぶという部分では、大谷さんの言う「眩暈」の中に入るかもしれませんね。でも、それは使う人によって変わると思います。結局、競技や模倣の意図を持ってやれば、そちら側になるし、意図を持たなければ、眩暈や運の方になると思います。

大谷:ただ、遊び全般をもう少し眩暈や運の方に取り戻さないといけない。

次回の更新をお待ちください。

みんなの居場所ぽっと:https://potpot.localinfo.jp/

大谷直史さん(鳥取大学 教育支援・国際交流推進機構 教員養成センター 准教授)
北海道大学教育学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は、社会教育学、 環境教育学。他者理解やコミュニケーション促進のツールとしてボードゲーム の開発・作成を行う。鳥取市に「みんなの居場所『ぽっと』」を設立、不登校の 子どものケアや子ども食堂の運営など、長年にわたり子どもの居場所づくりを 行っている。「ヒトトイロ」というボードゲームのデザイナーでもある。

2020年5月23日土曜日

単体の家族が自由にアクセスして、もう少しゆるく、広く、『贈与関係』を結ぶような組織が必要~大谷直史さん(みんなの居場所ぽっと)インタビュー~

現在YokaYokaでは、余暇支援に関わっている方(主に余暇、遊び、居場所)を中心に、「明日何しようかな~余暇支援に関わる方へのインタビュー~」と称して、お話を聞かせて頂いています。

前回までは、コミュゲ研の加藤さんのインタビューを3回に分けて紹介させて頂きました。

今回から鳥取でみんなの居場所ぽっとという居場所を運営している大谷直史さんに、「居場所とゲーム」を中心に、様々なお話を聞かせて頂きました。お話を聞かせて頂いたのは、新型コロナウイルスによる影響が本格的になる前の2月の下旬です。視察も兼ねて、ぽっとには2泊3日お世話になりました。

今回も含め、4回に分けてこちらのブログにアップしていきます。
興味がある方は、是非読んでみてください。

家族に代わりうる『贈与』をベースにした組織、あるいは制度というものを作る必要がある

― まず、大谷さんから、『みんなの居場所ぽっと』が、どういった目的で活動しているのかを説明して頂いてもよろしいでしょうか?

大谷:上級バージョンでいきますか?

―初級と上級があるのですね。 じゃあ、まずは簡単な方でお願いします。

大谷:易しい方は、みんなが自由にやって来れる、どんな人でもやって来れる居場所を作りたい。そうゆうとこなんですが、とりわけ周辺部にいる人ですよね。僕等がやりはじめたのは不登校の子だとか、あるいは虐待を受けていたりする子もいるし、障害を持っている、特に発達障害が多かったけども、そういった子の特に放課後の居場所、不登校であれば一日中という形で、作ろうと思ってやってきました。現在は、様々なニーズがあって、学童保育に少し特化したような形になっているけど、基本的にメンバーシップをとらない。ふらっとやって来て、ただ居て帰るという、そういった場所にしたいと思っています。

― メンバーシップに捉われない居場所という点を大事にされているのですね。次に、上級者向けの説明をお願いします。

大谷:上級向けとの説明としては、NFOという形を目指して活動しています。

― NFO・・・ですか?

大谷:ここは説明が必要ですね。私達は、3つの経済で生きています。国と市場と家庭の3つ。絵を見ればわかりやすいのですが、市場は『交換』をする経済があり、国は『分配』する経済があり、家庭は『贈与』する経済があるという事になっています。歴史上を含む全ての社会が、これらのいずれかの経済のブレンドで成立していました。しかし、今は、市場世界がどんどん増えていき、国や家庭の経済までが市場を中心とする交換経済に飲み込まれそうになっている。そうゆう状況を見て、市場だけに任せておけないという形でNPO(Non-profit organization)が誕生した。もっと公正な市場を作る事を目的に活動しているエージェントがNPO。国が頼りにならないから自分たちで国際的な活動をはじめたのがNGO(Non-governmental organization )。この流れの中で、家庭が壊滅しているので、家庭の機能を助けるために、Non-Family Organization 、つまりNFOという形が必要である。という新しい三角形の経済を作っていく必要があるだろうと。だから、この家族に代わりうる『贈与』をベースにした組織、あるいは制度というものを作る必要があるのではないか。この『みんなの居場所ぽっと』は、その実験場になります。

― 映画等の作品の中で『疑似家族』というのがでてきますよね。血縁と異なるつながりを持った家族の形として。それは、NFOと近いのでしょうか?

大谷:近いですね。現実に、ステップファミリーやシングルの家庭という形も存在しています。必ずしも、核家族が普遍的なものではないという事が明らかになっている。でも、上手くいかないから、様々な家族形態が試みられている。あの『沈没家族』とか好きです。『沈没家族』は見ましたか?

―すみません。「沈没家族」は見てないです。『万引き家族』であれば・・・

大谷:『万引き家族』も家族を新しく作ろうとする試みですね。でも、新しい家族を作るより、単体の家族が自由にアクセスして、もう少しゆるく、広く、『贈与関係』を結ぶような組織が必要だと感じ、この「みんなの居場所ぽっと」を始めました。

― 様々な家族が『ぽっと』という場所を媒体にゆるくつながる事ができる。それが、NFOの役割ということでしょうか?

大谷:もちろん、直接的な『贈与』も受ける・・・『子ども食堂』とかね。ここにきてご飯食べるだとか、一緒に遊ぶとか、そういった事もします。

― 以前、人が住んでいるところで『居場所』をやる事に意味があると、大谷さんが答えている記事を見た事があります。この考えはNFOに関係していますか?

大谷:それは、また別ですね。いわゆる施設等の仕事として対人サービスをやっていくと、直ぐに市場社会に飲み込まれてしまう。『贈与』関係をベースとした居場所をやるのであれば、絶対生活の延長としてやらないといけないと感じていました。それで住んでいるところでやりたかった。開かれた家族といってもいいかもしれない。すべては、『贈与』関係に持っていくための作戦。


緒に場所を共有してしまっている事に意味がある。共有している事で、何かが生じて偶発的な関りが生まれる

― 先ほどの経済の話に関係しているかもしれませんが、『分配』とは文字通り分けて配る事ですよね?政府は、税を徴収し、分配する。『交換』は、物と価値を交換する。つまりは貨幣経済ですよね。『贈与』の場合だけ、何かを与えるという、一方的な関係ですよね?この『贈与』における与えるという関係性は重視していますか?

大谷:最初は、不登校の子ども達との関りから始めたという事もあり、人間関係がうまくとれなかったり、コミュニケーション弱者に関心があったので、僕もその一員ではあったのですが、そういう人々にどうアクセスするというかな・・・人間関係は、『分配』できない。たとえ『分配』できたとしても、分配された友達なんかいらないといって上手くいかない。同じように、『交換』、つまりはお金で人間関係を買うことができるのかといえば、たぶんそれはできない。だから、『贈与』しか関係性を与えられない。『贈与』を活性化するしかない。独居老人の問題等の人間関係を提供するには、不平等だけど『贈与』しかないと考えています。

― そもそも『贈与』は、不平等な関係性なのでしょうか?

大谷:『贈与』は、不平等でしか成立しないと思っています。特定の人と仲良くすると、他の人と仲良くできない。ある人と付き合うと他の人と付き合っていけない事になっていますよね。これは不平等ですよね?

― 特定の人と仲良くするために自分の時間を割くと、それは『交換』になっているような気もしますが・・・不平だけど、『交換』が成立しているような感じがします。

大谷:いや『交換』は、平等ですよ。風俗は『平等』ですよね?お金さえだせば、誰でもアクセスできる。市場経済は、非常に平等な経済。ところが、贈与経済は不平等です。ある人と結婚すると、他の人と結婚できない。それは、非常に不平等だと感じています。少し危ない言い方になるかもしれませんが、その不平等さを緩和して、この『ぽっと』に来れば、誰でも『家族』になれるという事を目指しています。

― それは、疑似家族のような規定の家族の形に捉われないということでしょうか?

大谷:親密な関係性をランダムに与える。だから、メンバーシップもできるだけとらない。メンバーシップとると、メンバーとメンバー以外で区分して、不平等になってしまう。ここに居る人とたまたま来た人も、同じというふうにしたい。

― 『居場所』として場所を構えてやっているのは、アクセスできる事を利点と捉えているからでしょうか?

大谷:―緒に場所を共有してしまっている事に意味がある。共有している事で、何かが生じて偶発的な関りが生まれる。例えば、おならすればくさいか・・・そうゆう関りをたくさん生じさせたいと思っています。たぶん、それは場所がなくても、例えば、オンラインでも構わないという話になるかもしれないけど、一緒に同じようにアクセスしても、オンラインだとおならがくさいとかわからないですよね。

― つながっていても、同じ空間にはいないので感じませんよね。

大谷:こうやって話しているのを、あの子が勉強をしながら背中で聞いている。別に、そこに意味はないもしれないけど、居る事によって生じてしまっているような感じにしたい。

― どの言葉が適切かわからないですが、空間を共にすることで、直接的なコミュニケーションではない、居ることによる何かが生じているというという事でしょうか?

大谷:そうです。それが大事だと思っています。

次回の更新をお待ちください。

みんなの居場所HP:https://potpot.localinfo.jp/

大谷直史さん(鳥取大学 教育支援・国際交流推進機構 教員養成センター 准教授)
北海道大学教育学研究科博士後期課程単位取得退学。専門は、社会教育学、 環境教育学。他者理解やコミュニケーション促進のツールとしてボードゲーム の開発・作成を行う。鳥取市に「みんなの居場所『ぽっと』」を設立、不登校の 子どものケアや子ども食堂の運営など、長年にわたり子どもの居場所づくりを 行っている。「ヒトトイロ」というボードゲームのデザイナーでもある。